老いと学びの極意

武田鉄矢著 文春文庫(850円税抜き)

秀作の本である。(寺岡 晟)


秀作の本である。
著者の武田鉄矢(敬称を省かせていただきます)には、以前から
親しみを感じていた。
というのも、僕と武田鉄矢とは、2つの共通点がある。
ひとつは、共に1949年(昭和24年)生まれの団塊世代で
あること。
そしてもう1つは、彼の生まれ故郷の九州福岡市の郊外にある
雑餉隈(ざっしょのくま)という町で、同時期に共に少年時代を過ごしたことだ。
文中の「なくて七癖」このような記述がある
「手癖が悪かった、私です。・・・中略・・・八つの頃のことです。福岡市の外れ、雑餉隈(ざっしょのくま)という古代めいた地名の町で、私が小学校へ上がる頃から宅地造成が急速にすすみ、田畑が消えて人の街へ様変わりしてゆく町でした。その駅前から、線路を渡るとまっすぐに商店街が伸びており、枝分かれした路地の奥に5軒も映画館がありました。
百席がやっとの規模でしたが、新東宝・東宝・洋画系・日活・東映と五軒ありました。
・・・中略・・・因みにポツリと洋画館があったのは、米軍の基地が随所にあったからです。
米兵の姿や米軍用車の疾走は日常のものでした。
そんな戦後のにおいのする混然とした商店街を抜けて、映画館の闇へ通い続けたものでした。」
この記述を読みながら、僕も雑餉隈での少年時代のことが思い出された。
駅前からまっすぐに伸びる商店街、小学校の下校時、通学路を歩いているとき、進駐軍(米軍)のジープが砂埃を上げながら、僕らの横を通り過ぎて行ったこと、そして、そのとき、僕らは「サンキュー!」と声を上げると、時たまジープに乗っている米兵からチューインガムやチョコレートが投げられる、それを僕らは拾い集めながら「サンキュー、サンキュー」と手を振ると、肌つやのいい米兵が笑顔で手を振ってくれたこと、それらのことが今でも鮮明に蘇ってきた。
当時、鉄矢少年はタバコ屋を営んでいた母親の眼を盗んで、釣銭をくすねる悪ガキだったようで、そのくすねた釣銭を握りしめて週替わりで変わる上映される映画を毎週のように映画館に潜り込んだことが生き生きと描かれている。
更に、悪いとは知りつつ、その悪癖(釣銭をくすねる)は続いていたが、小学校高学年になると、ピタリとその悪癖は収まって、本の丸暗記という珍妙な癖が始まったと記している。
そして、丸暗記の癖を続けていく内に人名事典から「坂本竜馬」という人物を知り、また歌集の短歌や蘊蓄の切れ端を暗記することが、後に作詞や台本暗記の仕事のための有効な訓練になったと記し、時として、少年は未来へ先回りして用意せねばならぬモノを拾い集め出す時がある、と武田鉄矢らしい意味づけをしている。
この「老いと学びの極意」というタイトルは、副題の「団塊世代の人生ノート」に象徴されているように、彼が50歳の頃から、何かわからないこと、腑に落ちないことがあると、その都度、ノートに書き綴って、わかるまでこだわり続けてきて、そのノートが十冊余になっていて、その記述が軸となって、前述した「なくて七癖」を始め、21章に渡って彼の少年時代から始まって、フォークグループ「海援隊」、そして役者として確立した「三年B組金八先生」、映画「幸福の黄色いハンカチ」などで出会った高倉健を始め、多くの俳優や芸能人、あるいは本を通じて知った何人かの哲学者や作家などから得た人間観、人生観、そして武田鉄矢なる自分自身の生きざま、価値観が随所にチリばまれている。
普通、本の「はじめに」と「あとがき」は、その名の通り、「プロローグ」であり、せいぜい4ページくらいのボリュウムだ。
概ね、「はじめに」は本全体の大まかな内容を記し、本を通じて何を訴えたいか、が網羅されるのがスタンダードだ。
しかし、驚くことに「老いと学びの極意」では10ページに渡って武田鉄矢の人生を通じての「こだわり」の起点から現在までのことがびっしりと記述されている。
「はじめに」を読み終わったところで、僕は「この武田鉄矢という男は只者ではないな」という印象を強く感じた。
そして、次に控えているのが「あとがき」である。
それもスタンダードな「あとがき」ではないのだ。
「あとがき」のタイトルが「くどい『あとがき』として」とある通り、くどいのである。
その名が示すように、何と「20ページ」のあとがきなのだ。
たしかにくどい(笑)しかし、読みごたえがある。
読まなきゃ「老いと学びの極意」の真意が伝わらない。
「くどいあとがき」で彼は述べている。
「・・・基地の町ゆえなのか、小年期、生まれた国は情けない国であると諭す大人たちが沢山いました。強い国はアメリカ、賢い国は欧州の国々、団結の国はソ連(現・ロシア)で
・・・今も忘れませんが小学校5年のときでした。全校児童(千人ばかりいたでしょうか)
講堂に集められて見せられた映画は、北朝鮮の体制賛歌のプロパガンダ映画で、重工業を指導する金日成の笑顔とチョゴリ服のお姉さんたちの微笑みに溢れた国威発揚の映画。
その当時、北朝鮮は「この世の楽園」と謳われていました。
・・・その時代、私たちの生まれた国は、北朝鮮と比べて劣位にあると我ら団塊の世代はそう教えられました。
少年期を過ぎ、思春期の中学生の頃、少しこの国の様相が変わりました。
アジアで初めての東京オリンピックという興奮があり、風呂の湯を炭火で沸かすように、暮らしに安堵の温もりが伝わってきました。
振りむけば、あれが高度経済成長の始まりでしたが、その活況を醜いと渋る人が次々と現れました。
文化人、マスメディア、高学歴自慢の芸能人たちでした。
思春期を過ぎて青年期の入り口で、偶然の読書体験から、私は日本史から「玉」の如くキラリ輝く人物を拾いました。18歳の体験で、その人物こそが坂本龍馬。
その人を教えてくれた物語こそ司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」。
その読書体験で私はどれほど救われたことか、竜馬を背負うことで私はやっと「唯一無二」を手にしたのです。」
ここまで読み進んで、僕は合点がいきました。
武田鉄矢は、このどうしょうもない国、日本に生まれたことが悲しく、行き場のないやるせなさを感じ続けていた、ということを。
「くどいあとがき」で彼が「有刺鉄線の向こうは緑の芝生の庭が拡がり、白いテラスハウス、庭木の下にゆれるカウチ、脇のテーブルに飲み残しのコーラの瓶等々・・・そこは正に星条旗の国でした。」
僕自身も思い当たる。
少年時代、僕の家はその基地の中だった。
フェンスを挟んで向こう側は米軍基地、こちらが自衛隊基地。
夜になっても米軍基地の芝生の野球場では、煌煌とライトが点き、大人や子供たちが楽し気にナイターに興じる光景をフェンス越しに見つめながら、僕もアメリカ人に生まれたかったなぁ、と心に思ったものだ。
そのことを、チラッと父に話したら、「この馬鹿たれ!日本は良か国たい、戦争に負けたから今は敵わんけど、いつか日本が追い越すぞ!だからしっかり勉強をせんば!」
このときの父の言葉は今でも忘れない。
その父は自衛官でしたので、時々父が親しくしていた米軍将校のファウザー大尉のハウスによく招かれました。
蛍光灯の眩しい明り、真っ白く大きな冷蔵庫、果物を筒状の容器に入れてスイッチを押すとウイーンと音を立て、しばらくしてその容器をひっくり返してコップに注ぐと、ジュースが出来ている。
少年だった当時の僕にとって魔法を見るようだった。
それから十数年後、高校時代に我が家にもミキサーが登場したとき、内心、我が家もファウザー大尉に追いついたような気がした。
そして、武田鉄矢氏が、伝えたかったこと、言いたかったことが、このように記している。
「くどいあとがき」の最後に「まずは『学ぼう』とそう決意すること。その決意だけで世界は一変する、と。「学ぶ」とは「学ぶ」ものを探知し、拾い集める姿勢と礼儀のこと。
それさえあれば、賢愚善悪のいかなる人からも私たちは何かを「学び」執るのです。
・・・ならば私如きもこの「学び」の決意を、と終活の年頃とはいえ、心に誓ったのです。」

この本のタイトル「老いと学びの極意」に合点がいきました。   了