このところ「働き方」が話題になっている。
安倍内閣の政策の柱のひとつである「1億総活躍社会実現」の一環として、働き方を見直して、残業を減らそう、有給休暇をしっかり取ろう、主婦の社会復帰を促進しよう、高齢者を雇用しよう、待機児童を失くそう、いろんな言葉が飛び交っているこの頃である。
「日本人と働き方」、ずっと以前から取り上げられていたテーマである。
従前より「日本人は働きすぎ」「フランスではバカンスは1か月取っている」等々。
僕の話をしよう。
僕が社会人になったのは1971年、高度経済成長期真っ只中の日本だった。
そう、僕の世代は作家堺屋太一が名付親の団塊世代である。
思い起こすと、ベビーブーマーとして、小学校では教室が足りず、二部授業や講堂を仕切って授業が行われていた。
ちなみに僕の学年のクラス数は16組で、ひとクラス55名以上だったから1学年で約900名も在席していたことになる。
当に団塊である。
そんな世代だったから高校入試も大学入試も凄まじいものがあった。
そして、何とか大学に入ると、そこには古色蒼然とした象牙の塔であり、マンモス授業の教室、休憩時間ともなるとキャンパスは学生で溢れ、大学近辺の雀荘はどこも満員、ボーリング場も然り、お昼ご飯をと思っても学食は学生の長蛇の列、外に出ても食堂は人で溢れていた。
当時の大学紛争の遠因に、この人数の多さがあるのは間違いないと今でも思う僕である。
少子高齢化ならぬ多子若歳群化である。
就職試験の関門を何とか乗り越えて最初の会社U社に入ったとき、男子4大卒の同期はジャスト100名だった。
その前年の採用が60名だったそうで、この後もそれ以上の採用は無かったと聞いている。
余談だが、後に当時の人事部長と飲む機会があったとき、「部長、当時僕らを100名採用されたのは何か理由があったのですか?」と問いかけたら「その方が分かりやすいのと、統計を取りやすいからだよ」と笑いながら答えてくれた。
研修を終えて配属された営業部は、20代が中心の若くて元気な組織だった。
日常は、概ね朝は8時半過ぎには全員が揃い、日中は営業活動、夕方に帰社し、日報作成、上司との報連相、それにミーティングがあり、特に用が無ければ8時前には退社するというサイクルだった。
と言っても、上司や先輩が残っていれば帰りづらい雰囲気があったことを覚えている。
が、僕は同期の仲間のそれぞれが自分の仕事?をやっているのを横目に「課長、この後何かありますか?」「いや、特にはないよ」課長の返事が返ってきた。
「それではお先に失礼します。」と言って帰り支度をしてサッサと退社していた。
理由は簡単だ!
残業が嫌なのである。
あるとき、先輩から声がかかった。
「おい、寺岡!もう帰るのか!?」
「ハイ、そうです。」
「みんなはまだ仕事をしているんだぞ。」
「ハイ、僕は終わりましたので、帰ります」
「…」
先輩たちの冷たい視線を浴びながらもサッサと帰るようにしていた。
と言っても仕事しない訳ではなかった。
夜の残業が嫌なのである。
その頃から習慣になっていたのが早出である。
毎朝、7時半には出社し、人気の無い静かなオフィスで営業資料の準備やコピー、訪問予定を立てたりしているとあっという間に8時半になり、皆が出社してくる。
当時、45分からは朝礼があったので、その間の10分前後の時間を階下の社員食堂でコーヒー一杯を飲むのが日課になっていた。
あるとき、いつものように早出をして仕事をしていると突然営業部長が出社してきた。
僕は立ち上がって「部長、おはようございます!」と挨拶をすると「おお、寺岡か!ずい分早いなぁ」「ハイ、朝が大好きなのもので」と応えたら、「それはいいことだ。早起きは三文の徳だからな」と笑っていた。
それをきっかけに部長とは早朝に声を交わすこと増えたある朝、「寺岡、コーヒー飲みに行こう、奢るぞ。」もちろん「ハイ、喜んで!」の僕だった。
短い時間だったが時々の部長とのコーヒータイムが楽しかった。
部長の新人時代、営業マン時代のエピソード、奥様との出会い、等々普段は聞けないお話を聞くことができた。
文字通り、「早起きは三文の徳である」。
もうひとつ、ある。
僕は新人時代から有給休暇をほぼ100%消化してきた。
最初の年、学生時代の友人たちとハワイ旅行を計画したときである。
年末年始休暇の5日間に有給4日を加えて休みたいと上司に申し出た時である。
「寺岡、こんなに休んでいいのか?万が一病気になった時に有給が無いと欠勤扱いになるんだぞ」
「ハイ、それでもいいです。有給休暇は病気のためでなく自分のために使うものですから。」
「うーん、それはわかるけど仕事に影響は無いのか?」
「大丈夫です。締め(半期の営業締めは1月20日だった)には出社していますし、それに目標(予算)は12月20日までに必ずやり遂げますから。」
上司は、渋々ながらも認めてくれた。
それ以来、僕は独身時代には毎年の年末年始休暇に加えて有給休暇を連続して7日間~11日間取得して永いときは3週間の休日を満喫することを続けてきた。
その一方で、年末には休みを取ることが目標となり、仕事への動機づけにつながり、早めの目標達成に向けて計画的に活動することが習慣化していたと自負できる。
要は「メリハリ」である。
この行動習慣は、後に僕のワーキングスタイルとなっていった。
管理職になってもこのワーキングスタイルは変わらなかった。
「できる限り残業より早出を勧める。夜は貴重な時間だ。飲みに行くなり家族と夕食を共にするなり、大いにエンジョイして欲しい。そして可能な限り早出をしてテキパキと仕事をこなし、日中は目いっぱいに頑張って欲しい。そして有給は病気のときの保険ではない、自分と家族のために活用して欲しい。ハワイに1週間とは言わず、2週間ぐらいの旅をして欲しい」このようなことを部下たちに語りかけてきた。
30代半ばにR社へ転職した。
そこは想像以上に忙しい会社だった。
しかも入社と同時に2つの営業所を掛け持ちすることになった。
目の回るような1か月が過ぎる頃、折しもタイミングよく年末年始休暇に入った。
家族で伊豆の温泉ホテルで年を越し、休日の大切さを体感した正月だった。
そのとき密かに誓ったことは「仕事に習熟し、責任を果たせるようになったらドカーンと休暇を取ってハワイに行くぞ!」。
それから3年後、僕は家族と共に1か月の休暇を取り、ハワイでのロングステイを満喫することができた。
その頃だった。
タイトルにある「大統領のように働き、王様のように遊ぶ」というTVCMが流れだしたのだった。
この言葉は、大正製薬サモンゴールドのCMのコピーである。
当時、30代後半の僕にとって、まるで自分に対してつくられたCMのように聞こえてきたものである。
「大統領のようにバリバリ働き、王様のようにドンドン遊ぶ」、当時働き盛りの僕はこのCMをこのように汲み取った。
これだけは言える。
働くことは、「自分の意志」であり、「生きがい」であり、そこに「やりがい」がある。
だから「成長がある」そして「そこには仕事を楽しむ自分がいる」
でも「働かされる」は自分の意思ではなく、押し付けだ。
押し付けは苦痛を生む。疲労を生む。
広告会社電通の女子社員自殺がそれかも知れない。
原因に挙げられているのが月間100時間を超す残業と報じられている。
どのような状況下で彼女が働いていたのかは、推測の域を出ないが「うつ状態」であったのは間違いないようだ。
そしてその主因が電通の鬼の十則にあるように報じられている。
僕が一番気にかかるのは、彼女の上司である。
日常、どのようにマネジメントをしていたのか?日々のコミュニケーションは?
言えることは、上司が彼女に関心を持っていたか?単に作業員の1人としか見ていなかったのか?
僕はその点が最も気になることである。
彼女に経験して欲しかったことは「仕事のやりがい」と「やり切った後の楽しさと達成感」、そして「やり切った後の遊ぶことの楽しさ」だ。
先日、親しい方との話の中で「大統領のように働き、王様のように遊ぶ」というCMのことを話題にしたら、彼曰く「寺岡さんは王様のように働き、王様のように遊ぶ、ですよ。何故ならば寺岡さんは「仕事が遊び、言い換えれば仕事を楽しみながらやっているじゃないですか。そして遊びも楽しんでおられるからです。」
「働き方」って「生き方」なんですね。