人生への恋文
石原慎太郎 瀬戸内寂聴 共著 世界文化社 2003年10月初版 1,429円税別
お二人の著者名を見て思わず買い求めた(寺岡晟)
石原慎太郎 瀬戸内寂聴 共著 世界文化社 2003年10月初版 1,429円税別
お二人の著者名を見て思わず買い求めた(寺岡晟)
本のタイトルと二人の著者名を見て思わず買い求めた本である。
お二人の往復随筆集(書簡)というエッセイ集だ。
ひとつのテーマに対して石原慎太郎氏と瀬戸内寂聴氏がそれぞれ思いを語っている。
それも例えば石原慎太郎氏が「涙」というテーマに対して「涙の訳」、瀬戸内寂聴氏が「涙、涙、涙」というように表現は異なるから実に面白く読める。
ちなみに、文中のテーマは「涙」「人生」「海」「転機」「運命」「心の通い」「夢」「不可知」「老いる」「空」「時」「日本人」「流行」「仮面」「幽霊」「光」「客観視」「記憶」「風」「海」「酒」。
全部で21のテーマである。
何を根拠にこのテーマを選んだのか、はわからないが、一つひとつが興味のあるテーであることは確かだ。
僕の本の読み方はいささか乱暴である。
通常、「はしがき」を読むことから始める。
ここでこの本で言いたいこと、伝えたいことの大枠をつかむことができるのがありがたい。
次は目次だ。
ザッと目次全体を俯瞰して、そこから順序に関係なく、興味のある目次を見つけたら、そこから読み始めるという訳だ。
本題に戻る。
「人生の恋文」から僕が興味を持って最初に読み始めたテーマが「転機」である。
まず、石原慎太郎氏は「転機」について、このような書き出しから始まる。
「今から思い返せばあの時あれがあったから今がかくあるのだという、人生のきっかけというものがあります。ものごとの流れの中には、大きな変化の前に、それを導き出した小さな出来事というものがあるものです。」
同感である。
いわゆる、ターニングポイントというものは、そういうものだと僕も思う。
続けよう。
「人間誰しも自分でもその訳がよくわからぬ、しかし後になって振り返ればあれこそ、あの時こそ人生の転機というものがあるものです。しかし、それは偶然にもたらされたものではなしに、人生の流れの中では必然、蓋然のことに他ならない。ただ人間自身がそう気づかぬだけなのでしょう。そして往々多くの人はそれを取り逃がしてしまってもいます。」
ドキッとする言葉だ。
「はたから眺めて、ああ今がいい機会なのに、今こそああすればいいのにと思う他人事は良くありますが、それが肝心の当人にはよくわからない。それも結局自分の人生への熱意の問題なのでしょう。」
読みながら、同じような体験をしたことを思い出した。
まだ続く。
「誰であろうと自分の人生を満たされたものにしたいと願わぬ者はいないでしょうが、その一方では、結局毎日毎日をルーティン化してしまい、安易さの内に自分を流してしまっている人がいかにも多い。」
この言葉も重く響く。
「若い人間なのに、周りからどんな人生を欲するか、どんな人間になりたいと思うか、と問われて、よく、平凡な人生がいいとか、平凡な人間になりたいとか考える手合いです。
多いよね、僕は一種の若者らしいポーズだと観ているが…。
石原慎太郎氏はこのような若者に対して躊躇なく切り捨てる。
「私は自我狂という言葉が好きです。それは決して独善ということではなしに、自分自身に対するモノマニー、つまり思い込みです。
…中略
人間の尊厳は何よりもその個性にこそあって、それを若い者の癖に人生を端っから平凡でいいなどと口にするのは、自分自身だけでなく、人間全体への冒涜しかない。」
石原節全開である。
「実は政治家になる決心をした前にそれに繋がるきっかけがありました。
昭和30年代に世に出て以来、もてはやされるままいい気になって、良いものも書いたが随分乱暴なものも書いて、お金にはなったが作家として無駄としかいえぬものも書いていました。
ある時『盲目の天使』という娯楽小説を書いたら、誰だったかシニックな評論家がそれを評して『昔のアポロ、今はナイトクラブのマスター』と書いていた。
なぜかその批評の一言がこの身に深く突き刺さった気がしていました。
つまりデビュー作の『太陽の季節』の清新さに比べて、ただその延長の手慣れた風俗の中で物を書いている自分に、どこか自分自身で後ろめたさを感じていたのだと思います。
“確かにこれじゃいかんなあ”と密かにしみじみ思った。
…中略
その年の暮れに行われることになったベトナム戦争でのクリスマス休戦の取材に行ってくれるかという依頼があったのです。
これなら大きな気分転換も出来そうだと、私には渡りに船という申し出に見えた。
最前線の待ち伏せ作戦にまで出かけて、寒さと疲労と恐怖でへとへとになって帰国したら
滞在中に肝炎に感染して、生まれて初めて絶対安静ということでベッドに縛りつけになってしまいました。
しかし、その間、世の中を達観し日頃考えなかったようなことも考えている内に、政治家になる決心をしてしまい、今日こうした体たらくです。
…中略
ただ今ここで人生について考えなおしてみると、人の運命を変える転機というものは実は折節に設けられているもので、それに気づかずに過ごす過ごさぬの幸不幸、というより後悔や満足の綾もまた人生の味わいのひとつでしょうか。
そう思うと一種の生命体としての企業や国家にも、転機というものが確かにあります。
それを敏感に旨く捉える捉えないというのは人間と同じように結局自分自身への強い関心、言い換えれば愛着の有無だと思います。
人間は自らの転機に気づかないと、一生を棒に振ることにもなりかねませんが、なかなか他人が私のために今こそがお前のための転機とはいってくれるものではありませんからね。
さてこの先、この国、この私にいかなる転機が待ち受けていてくれることやら。」
この件(くだり)を読みながら、僕は自分のこれまでの人生に於いてどんな転機があったのか、僕はそれを生かしたか、否か。
10代の終わり、アメリカの大学の夏季講座を受講できたことを思い出した。
あのとき、帰国の途に立ち寄ったハワイで独り、海を見ながら日記を書きながら、『このアメリカ体験は僕のこれからの人生に大きな影響を与えるきっかけになるだろう。将来、僕はきっと僕の人生のターニングポイントはこのアメリカ体験だ。』
その通りだった。
本を読み進むと、瀬戸内寂聴氏のページになった。
「転機はつかむもの」がテーマだ。
彼女はある意味、波瀾万丈の人生を生きている方だ。
東日本大震災の後、被災者支援の一環として、避難所に足を運び、「生きる」というテーマで語ったシーンをTVで観たことを覚えている。
柔らかな語り口で、それでいて確固たる強さ、意志が伝わってくる説教だった。
「芸術家は人生で岐路に立たされた時、あえて困難な路を選ぶものだと、私に教えてくれたのは岡本太郎さんでした。この言葉ほど私のその後の人生に力強く作用したことはありませんでした。人生の転機というものは、生涯に繰り返し訪れるもののようです。
その転機は決して誘ってくるものでもなく、願って訪れるものでもないようです。
突然、雷のように落ちてくることもあれば、霧のように足音もなく、いつの間にかひしひしと自分を取り巻いていて、ある日ふと、その濃さに気づいた時、それを転機として捉えるのではないでしょうか。常に心が緊張し、神経を研ぎすましていなければ、いくら転機がサインをよこしてくれても、それに気づかないで見逃してしまうことがあるのでしょう。
あなたが(石原慎太郎氏)、文壇の寵児として持てはやされ、流行作家としての成功も手に入れ、人も羨む華やかな存在だったその盛りの時、やっかみ半分の批評家の文を見逃さず、自分の迷いを破る刃として、自身の心に受け止めたということに感動しました。
私にも同じような経験があります。
私も遅まきながら運が向いて来ました。
流行作家として注文に応じて書きまくっていました。
着物もあれこれ買い、世界のどこへでも旅に出、短い指に宝石などをつけ、いい気になっていました。
そんな頃、これは本来の自分が目指していたものとちがうという不安が、私を壁のように取り巻いていました。
たまたまその頃、井上光晴さんと高松に講演旅行に行きました。
井上さんとはそれが初対面でした。
二人で飛行機に乗りました。機内で井上さんがトランプ占いをしてくれました。
機内中に聞こえるような大声で『ああ、あなたはまさに人生の転機に立っていますね。つまり、この札とこの札は、すべてを流し捨てるという札です。あなたの今の地位、富、人気、男、そんなもの一切を捨てろと出ています。これは今の仕事を捨て、純文学を書けということじゃないですか』
はじめは面白がってニヤニヤ聞いていた私が、気がついたら血の気の引いた顔になっているのがわかりました。わたしはその瞬間、『やっぱり』と思ったのです。
日頃、心にモヤモヤしていたものの正体をその時はっきり見たと思いました。
それがわたしの人生の決定的転機になりました。
…中略
そのうち、自分の作品にうながされる形で、わたしは出家の大転機をつかんだのです。
51歳の時でした。
おかしいのは後になって、井上さんのトランプ占いは、新しい女に出逢ったら必ず自分から進んでやって見せ、口説きの一手にする方法とわかったことです。
ただ、戯れのその占いで、自分の転機をつかんだのはわたし自身でした。
北京での終戦、家出、離婚と、ふりかえればわたしにも数々の転機がありました。
2002年、満80歳になるわたしにも、また新しい転機がないとはいいきれません。」
言い方を変えれば、人は等しくチャンスが与えられる。
しかし、そのチャンスを生かすか、気づかずに終わるか、それはその人の気持ち次第だ。
問題意識、当事者意識がない限り、どんなに素晴らしいチャンスをも通り過ぎていく、まさに猫に小判である。
最後にお二人の言葉を記す。
瀬戸内寂聴氏「わたしの光背(光輪、あるいはオーラ)は、ものを書かせ、出家させてしまった過剰な自分の情熱でしょうか。」
石原慎太郎氏「私は今でも自分の人生に恋着しているし、その光背の海に限りない愛情と思慕があります。」
青春に年齢はない、その人の思い、情熱がある限り、青春は永遠である。