日本国紀
百田尚樹 著
歴史とは『物語』なのです(寺岡 晟)
百田尚樹 著
歴史とは『物語』なのです(寺岡 晟)
この年末年始に読もうと買い求めた中の1冊である。
「日本国紀」、タイトルがそのまま表紙になっている本である。
書き出しの「序に変えて」に目を引かれる言葉があった。
曰く「ヒストリーという言葉はストーリーと同じ語源とされています。つまり歴史とは『物語』なのです。」
そう、この日本国紀は、日本の歴史を縄文時代から現代までを一本の線=「物語」で繋いだ日本史である。
結論からいうと、実に面白い本である。
日本の国の始めから今日までの人間史と言っていい内容である。
ちなみに日本という国名の起源は7世紀に日本にやって来た唐の使者に天智天皇が「日本鎮西大将軍」という書を与えたとある、そこら辺りが起源ではないか、と筆者は記している。
日本人の特性について我々にもポピュラーな「魏志倭人伝」には、日本人の性格や日本社会の特徴について、「風俗は乱れていない」「盗みはしない」「争いごとは少ない」と記されている。
筆者の推測だが、歴史書にそういった記述があるというのは、これらの特徴が非常に珍しかったに違いない、とある。
このことは、現代でも綿々と引き継がれている日本人の特性ではないだろうか。
僕はよく海外に出かけるが、アジアでもヨーロッパでも中近東でも北アフリカでも、アメリカでもそうだが、油断は禁物である。
日本では電車内でも居眠りができるが、他ではそうはならない。
どこにでもスリや置き引きが虎視眈々と狙っているのだ。
僕の油断で、パリの地下鉄でスリに会い、アテネでは集団スリに囲まれて危うくスラレそうになったり、NYでもそうだった。
こういう日本人の特性がどこから生まれたのか、筆者はこう記している。
「日本の縄文時代の文明より、はるかに高度な文明が誕生していた。黄河・長江流域、インダス川流域、チグリスユーフラテス川流域、ナイル川流域などで大規模な都市国家が生まれていた。そして古代ギリシアでは第一回オリンピックが開かれたのは紀元前776年、その頃縄文人たちは石器と土器の世界だった。しかし大きな戦争はなく人々は平和に
暮らしていた。(考古学的資料には大戦争の跡がない)
当時の縄文人たちは一所懸命に縄文模様を土器に施していたことを考えると、その暮らしの中に美しいものを求める気持ちを持っていたのだ。」
古代から大和朝廷成立までを「日本の幼年時代」とするならば飛鳥時代は「少年時代」といえる、と筆者は述べている。
それは、「『日出国日本の誕生』であり、その国名は1300年後の今日で変わらない。
飛鳥時代は、日本という国がたくましく成長していくダイナミックな時代であった、」
古代日本から飛鳥時代にかけて日本人としてのアイデンティティが生まれたと生き生きと記述されていて、僕をグイグイ引き寄せるものがあった。
話を先に進める。
鎌倉時代のことだ。
頼朝の血筋が途絶えたとき、当時の後鳥羽上皇が天皇施政に戻す好機とみて、全国の武士たちへ決起を促した「承久の乱」での北条政子のことに僕は大いに興味を抱いた。
「後鳥羽上皇が時の執権北条義時追討の院宣を発すると、これに呼応した鎌倉政権に不満を持つ武士や僧兵たちが挙兵した。幕府は動揺したが、北条政子が御家人たちを集め、頼朝がいかに彼らのために戦ってきたかを熱く説いた。
これが史上に名高い『演説』であり、政子の名を『尼将軍』として後世にまで名を残すエピソードとなった。
政子の言葉に燃えた御家人たちは、上皇側と戦う決意をし、京都へ攻め上った。そして後鳥羽上皇を遠島に処し。戦いに勝利した。」
不勉強な僕はこのエピソードを知らなかった。
そこで、その北条政子の演説の中身に興味を抱いた僕はいろいろ調べた。
「いったいどんな話をしたのだろう?」
これまで名前だけしか知らなかった、また興味もなかった北条政子を調べるのはワクワクするものがあった。
結果、北条政子の演説の中身がわかったのである。
それは、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記されていた。
「殿原(とのばら)、聞きたまへ。尼、加様(かよう)に若(わかき)より物思ふ者候(そーら)はじ。一番には姫御前に後(おく)れまいらせ、二番には大将殿に後れ奉り、其後(そののち)、又打ちつづき左衛門督殿(さえもんのかみどの)に後れ申(もーし)、又程無く右大臣殿に後れ奉る。四度(しど)の思(おもい)は已(すで)に過ぎたり。今度、権太夫打たれなば、五(いつ)の思(おもい)に成ぬべし。女人五障(にょにんごしょう)とは、是(これ)を申すべきやらん。殿原(とのばら)は、都に召上げられて、内裏大番(だいりおおばん)をつとめ、降(ふる)にも照(てる)にも大庭に鋪皮布(しきがわしき)、三年(みとせ)が間、住所(すむところ)を思遣(おもいやり)、妻子を恋(こいし)と思ひて有しをば、我子の大臣殿(おとどどの)こそ、一々、次第に申止(もーしとどめ)てましましし。去(さら)ば、殿原は京方に付(つき)、鎌倉を責給ふ(せめたもー)、大将殿、大臣殿(おとどどの)二所の御墓所を馬の蹄(ひづめ)にけさせ玉ふ者ならば、御恩(ごおん)蒙(こーぶり)てまします殿原、弓矢の冥加とはましましなんや。かく申(もーす)尼などが深山(みやま)に遁世して、流さん涙をば、不便(ひぶん)と思食(おぼしめ)すまじきか。」
現代語訳
「みなさん,心を一つにして聞いてください.これは私の最後の言葉です.
頼朝様が朝敵(木曽義仲や平氏のこと)をほろぼし関東に武士の政権を創ってから後,
あなた方の官位は上がり収入もずいぶん増えました.
京都へ行って無理に働かされることもなく,幸福な生活をおくれるようになりました.
それもこれもすべては頼朝様のお陰です.
そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです.
しかし,今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし,私達を滅ぼそうとしている者があらわれました.
名を惜しむ者は藤原秀康(ふじわらひでやす)・三浦胤義(みうらたねよし)(二人とも朝廷側についた有力武士)らを討ち取り,三代将軍の恩に報(むく)いてほしい.
もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい」
この時代にも言葉の力、熱意を込めた言葉には、人は引き寄せられること、僕にとっては大きな発見であり、驚きであった。
同時に歴史とは、まさに人間史そのものだということが強く感じ取ることができた。
日本国紀は、引き続き戦国時代、江戸時代、そして幕末維新へつながり、明治日本の夜明けと記して、近代国家へのスタートを切ったこと、世界へ打って出る日本として青年日本のほとばしるエネルギーの有り様、そして大正、昭和、大東亜戦争。
多くの犠牲を生んだ敗戦、占領時代、そして驚異的な日本の復興、結びは今年(平成31年)で終わる平成へとヒストリー=ストーリーがつながっていく。
筆者百田尚樹氏はこのような言葉で結んでいる。
「二千年の歴史を誇る日本人のDNAは、私たちの中に脈々と生き続けていたのだ。五十年後、はたして日本はどのような国になっているだろうか。私はその姿を見ることは叶わないが、世界に誇るべき素晴らしい国家になっていることを願いながら、筆を擱く。」
この本には、様々な意見、感想が巷に溢れている。
それに対して論ずるよりも、日本人としてこの日本、日本人のヒストリーを振り返る価値があると僕は思う。