12月はスペイン、バルセロナへの旅。
以下は今回の旅で強い印象を受けたランブラ通りの話である。
La Ramblaとは「ランブラ通り」という意味だ。
ランブラ通りは、スペインのバルセロナの中心にあるカタルーニャ広場から港の入り口にあるコロンブスの塔まで続く1,2㎞の並木道である。
ランブラ通りは、道の真ん中に凡そ10m幅の広い遊歩道があり、その左右に2車線の車道が設けられている構造だ。
僕の知る限り、このような形態の通りは日本には存在しない、筈だ。
さて、僕は2015年12月、そのランブラ通りに面したホテルに4泊した。
バルセロナと言えば、ガウディのサグラダファミリアが何と言っても有名だ。
着工以来100年を超え、今から10年後の2026年に完成する?と言われている世界遺産のそれだ。
僕自身もサグラダファミリアを、この目でみたときは、その圧倒的な迫力に、文字通り圧倒されたが、ここではそのことを語るのは本筋ではない。
バルセロナ滞在中、間近に見て、接し、体験し、心が魅かれたランブラ通りのことを語りたい、まさしくスペイン語でいう、PicaPica(心惹かれる)RaLambla(ランブラ通り)である。
ランブラ通りは、朝早くから夜遅くまで多くの人でごった返し、花屋、鳥屋、大道芸人、カフェテリア、レストラン、それに怪しげな露店、スリ、物乞いが並ぶ大通りだ。
羽田を出発して、途中アラビア半島のドーハで乗継ぎ、延々19時間をかけてバルセロナに到着したのが、現地時間の13時過ぎ。
荷物を抱えて地下鉄に乗るのは、スリに餌を与えるようなものなので極力控えた方がよい、とガイドブックに記されていたこともあり、僕はTAXIを選んだ。
空港から走ること30分余、カタールニア広場を左手に見ながら、人でごった返すランブラ通りに滑り込んだ。
「「セニョール、ホテル!」ドライバーが対面のホテルを指差す。
TAXIを降りてホテルまで約10m強、普通に歩けば数秒の距離だが、行き交う人込みを見ると10分はかかると思えるくらいの人込みだ。
それに加えて、露天商の呼び込む声、大道芸人のパフォーマンス、道行く人の話し声、パンを食べる音、子供の泣き声、大人たちの笑い声、ありとあらゆる音が耳に飛び込んでくるではないか。
…ムム、ホテルまでの10mの間に身ぐるみ剥がれるかも!?
ともあれ、何とかホテルに滑り込んだが、チェックインまであと2時間あるとのこと。
キャリーバックを一旦預け、腹ごしらえと様子見を兼ねて、再びランブラ通りに出ることにした。
チェックインを果たしていないため、僕のショルダーバッグには、パスポートと財布、僕の全財産が入っているので、バリアーを聞かせながらのランブラ通りデビューとなったのである。
通りは人種の坩堝だった。
幼稚園の子供たちだろうか、先生に引率されて歩いている。
先生はベールを巻いた女性だ。
子供たちは仲良さげに、ある子たちは手をつないで歩いて、スペイン系っぽい子がいれば、アラブや中東よりの肌色の濃い子がいる。そのハーフっぽい顔立ちの子もいる。肌の色は白くても、髪の色がみんな違っていたりする……・
そういった、見た目には共通点がなさそうな子どもたちが、ひとつのクラスの仲間としてアラブ系の先生に連れられて歩いている。それが日本にはない光景で、とても新鮮に映った。
よく通りを見渡してみると、浅黒いスペイン人が客引きをしているかと思えば、移民でやってきた?黒人だったりする。
アジア系の顔も見える。遊歩道に設けられているテント張りのレストランの客引きだ。
眼が合ったら「你好!好吃!今日は!美味しいよ!」と声をかけられた。
余談だが、僕は海外で日本人に見られるのは稀だ。
概ね、中国人、台湾、シンガポーリアン、ときにはアメリカンもある(笑)。
黒人たちが、白いシートの上に偽物のブランド品を並べて観光客に勧めている光景に出くわした。
直感的に、どうみてもヤバい雰囲気が感じ取れる。
右手の方から黄色い夜光塗料で彩られたハーフコートの2人の警官がやって来るのが見えた。
すると、それを察知した彼らは白いシートの端についている紐を引っ張った。
すると、シートは一瞬にして袋状になり、それを担いでスタコラ足早に立ち去ってしまったのだ。
その後ろ姿を見ると、それはサンタクロースの姿のそれだ。
やって来た警官は追いかけることもなく、笑いながら戻っていった。
それから4日間、この光景を毎日、何度も見ることになるのである。
ホテルで聞くと、彼らはナイジェリアマフィアがしきっている違法露天商なのだとか。
目を転ずると、あちらこちらにBarバルと呼ばれる食堂とバーが一緒になったような飲食店がある。
結果的に滞在中、食事はもちろん、ひと休みのコーヒブレイクも、ビールもワインも、酒場であり、居酒屋であり、軽食喫茶店であり、食堂であるバル7を最も利用することになった。
取りあえず、チェックインまでの時間をバールで休むことにして、何軒かバルを覗いて選んだのが元気なマダムが仕切るバルだった。
長旅で疲れていたこともあると思えるが、ここで飲んだカップチーノが実に美味かった。
濃いめに入れたコーヒーにたっぷりとミルクを注ぎ込み、泡立てられたカップチーノは僕の
「マダム、デリシャス!」と声をかけると、ニッコリ微笑んで「グラシアス、○△♪…」
どうやら喜んでくれたようである。
すると、マダムが小さなスコーンを運んできた。
「?」という顔をするとマダムは「Servicioサビシオ」サービスよ!と聞こえるのが面白い。
一気にバルセロナが好きになった瞬間だ。
結局、このバルには毎日通うことになった。
まさに商いの神髄、「損して得取れ」だ。
ここのカフェと手づくりのスコーンが評判がいいのか、ひっきりなしにお客が来ては、「Holaオラ!今日は!」とマダムもお客も声を掛け合う。
立ち飲みでカフェを飲み、スコーンを食べ、TAPAS(軽食)を食べ、おしゃべりをして立ち去っていく。その回転の良さにこのバルの評判を裏付けるようだ。
ひとまず小腹を落ち着かせてホテルに戻り、無事にチェックインを済ませた。
辺りがすっかり暗くなった頃、そぞろ歩きを楽しみながら今夜の食事をすることにして再びランブラ通りに出る。
昼間以上にスゴい人出だ。
最近の日本では滅多に見ることがない光景だ。
フト、昭和30年代の、あの三丁目の夕陽の子供時代の歳末風景を連想した。
ひとつ異なるのは、道行人の人種、恐らく国籍もバラバラだということだ。
人込みの中、僕のような世界から集まったツーリストたちが歩いている。
ちなみにスペインは年間6,500万人の観光客が訪れる、フランス、米国に次いで世界第三位の観光立国だ。
日本は1,500万人で世界22位だから、まだまだだ。
だから、ほんとうに多種多様な人種と民族、国が入り混じった、ごった煮のような状態が日常になっている街が、眼の前のランブラ通りだ。
イベリコ豚の生ハムを吊るしているバルを見つけた。
美味いかな!?と物欲しげに見つめると、人懐こい笑顔が返ってきた。
「セニョール、オラ!」と、バルのオーナー?
「オラ、セニョール!」と返す僕。
気のいい生ハムのオーナーはサクッと生ハムの皮を薄く削いで、僕に奨める。
断る理由はない。
噛むと口中に塩味と脂身が重なって実に味わい深いものに仕上がっている。
「デリシャス!」と言うと、ニコニコ顔で別の生ハムを薄く削いで、又もや僕に奨める。
又もや僕は、「デリシャス」だ。
すると、又もや別の生ハムを削いでくれる。
これも美味い、だから「デリシャス」だ。
すると、又もや…
キリがないので、ここらで止めておくが、ほんとうにそうだったから仕方がない。
結局、これだけでお腹いっぱいになった僕は「グラシアス、アデュー」と軽快に立ち去ったのである。
とは言え、気遣いのある僕は結局翌日に立ち寄り、昨日のお礼と共にビールと共に生ハムを味わったのである。
どうやら、バルセロナの商人魂は「損して得取れ!」のようである。
ちなみに生ハム屋の彼は、初めて言葉を交わしたスペイン人だった。
それからというもの、滞在中に7~8か所のバルで飲み食いした僕は、この短い間に多くのバルセロナっ子との出会いが会った。
イカ墨の美味いパエリアを提供してくれたバルのコックはウルグアイから、レジ兼ウェイトレスの彼女はロシアのスターリングラードから、歩き疲れたときに入ったバルの女性は南米チリから、
そこでパンを焼いていた彼女はフランスとスペインの間のピレーネ山脈の人口70万人の山国アンドラからだった。
日本にいては絶対に会える確立がゼロに等しき国だ。
また、市場のシーフードのバルの愛想のよい元気な若者はイタリアから。
宿泊しているホテルのフロントマン2人の内訳はスペインとフランス。
そして、到着日にインパクトを受けたサンタクロースの袋を担いだ黒人集団は、マリ連邦、ナイジェリアからだった。
バルセロナを飛び立つ朝、僕は行きつけになったバルで、元気のいいマダムが煎れてくれたカップチーノを味わいながら、眼の前のランブラ通りを行き交う様々な人種、民族、国々の人を眺めながら思ったことがある。
世界はいろんな民族でできていて、それが交じり合って日常を作っている。
海外、特にヨーロッパ、それもバルセロナに来て、僕はそのことを強く感じた。
バルセロナの街、ランブラ通りを歩いていて思うのは、色んな人種が混じりあって、ひとつの街をつくりあげていることだ。
そしてそれは、僕ら日本人には生来的に持っていない感覚のように感じる。
日本は、「日本人」でそのほとんどが構成された、世界的にもとても珍しい国なのだ。もし日本国民の比率が、韓国人が10%、中国人が20%、タイやベトナムなどの東南アジアの人が15%、そして日本民族の比率が50%~60%くらいになったとしたらどうなるか。
社会の仕組みはもっと複雑に、民族同士のぶつかり合いも出てくる。
しかし、こうした状況は、日本以外の国ではあたりまえになっていることだ。
今、世界は揺れている。
テロ、IS、難民、民族問題、宗教、貧困、独裁、覇権…
僕は眼の前のランブラ通りを見つめながら、ここが世界の凝縮された姿の象徴のように思えた。
この通りの中で、自己の存在を明らかにし、交流をし、友を得、時にはドギマギし、徒に臆病にならず、朝日を美しいと感じ、美味しいものを食べると微笑み、子供を見ると声をかけたくなる、そんな姿がランブラ通りにあった。
明日の夜には、日本人の国、日本に帰りつく。
世界と日本を考える機会となったPicaPicaのランブラ通りだった。
そして、ランブラ通りの突き当りにはコロンブスの像が「新大陸」を指差していた。