辻井伸行に魅せられる!

辻井伸行ピアノ

我が家では、数年前からリビングルームでBGMを流している。

といっても僕ではなく、家内の発案だが。

子供たちも結婚して家を離れ、僕ら夫婦だけの新婚時代?に戻っているが、ともすると、お互いが無言でそれぞれやりたいことに集中していると、永い時間に渡ってシーンと無言の時間を過ごしてしまうことが多くなった。

そんなある日、帰宅してリビングの扉を開けるとピアノの音色が聞こえてきた。

「あれ!?どうしたの?」と、問いかけると、家内がにっこり微笑みながら「このチューナーを買ったの」と家内が白いアンプを指差した。

それは、あのBoseのチューナーシステムだった。

「高かったでしょう!?」と聞くと、家内は「ヤボなことは聞かないで!」と、これもまた微笑みながら応えた。

その日以来、我が家のリビングルームにはBGMが流れるようになったのである。

そして、流れる曲も様々だ。

特にジャンルを問わず、ジャズ、カントリー、ポピュラー、クラシック、たまに演歌も流れる。

それらは、CDアルバムがメインで、僕も家内も時々、新譜のCDを買ってきてはBGMを楽しむようになった。

そんな折、家内の誕生日のお祝いにと、プレゼントしたのが、辻井伸行のCDアルバムだった。

収録曲のひとつに彼のオリジナル曲の「川にささやき」が含まれていた。

我が家のリビングルームにこぼれるようなピアノの演奏が始まった。

どこかの高原を流れる小さな川を流れる水がところどころの石にあたりながら、流れていく様が目に浮かぶようなピアノ曲だった。

小鳥のさえずりが聞こえ、白樺の林威が川に沿って続き、水面にこぼれ陽が当たってキラキラと輝く、そんな至福の時間だった。

以来、僕ら夫婦は辻井伸行に魅せられた。

そして、年も改まった1月、僕ら夫婦は群馬県民会館ペイシア文化ホールにいた。

一度、ナマで辻井伸行のピアノを聞きたいね、と願っていたら、彼がショパンの曲中心のリサイタルを開くと知り、ネットを通じてチケットを購入することにした。

ところが、辻井伸行の人気は半端なものでなく、入手が難しかったのである。

正月6日の鎌倉芸術館をと思って検索したら既に完売。

それもまだ2015年の11月のことである。

他の会場を探したらこれが一層厳しく、また遠隔地がほとんどだった。

長野県松本市、沖縄、岩手、青森、札幌、広島、完売で、しかも遠い。

これは無理だなぁ、あきらめるか、と思いながら、運よくゲット出来たのだが最後の会場となっていたペイシア文化ホールだった。

「おい、辻井伸行のライブに行けるよ!」

そのときの家内の笑顔がとても嬉しい僕でした。

…あ、おのろけではありませんよ!

 

苦労してゲットした座席は、前から21列目の29番、30番で、嬉しいことに正面ド真ん中だった。

ステージには、グランドピアノが一台ポツンと置かれていた。

そのピアノ一台が無言のメッセージを発信しているように感じられた。

そのメッセージは、これから辻井伸行が一所懸命に演奏します。楽しんでください。

と言っているかのようだ。

僕らは、嫌が上にもますます期待感が膨らむ。

「これからだね」と僕。

「これからよね」と家内。

周囲の席はなぜか中年のおばさま方が多い。

おばさま方の会話を小耳に挟むと、どうやら僕らと同じで東京から聴きに来られた方が多いようだ。

「良かったね、頑張ったかいがあったわね」、同感である。

「帰りはどこかで食事をして帰りません!?」、確かに。

「今度はベートーヴェンをサントリーホールでやるんですって!」そうなんだ。

周りのおばさま方も僕ら同様に待ちに待った辻井伸行のライブだったことが伝わってくる。

そして、演奏は突然始まった。

ステージ左袖からエスコートの男性に手をつながれて、辻井伸行の登場だ。

グランドピアノの前に立つと、正面の僕らの方に向かって深々とお辞儀。そして右手に向かって同じように深いお辞儀、左手も同じように。

会場内に割れんばかりの拍手の固まりが鳴り響く。

彼はピアノの前に配されているスツールに浅く腰をかけ、ピアノとの間合いを測るように小刻みに動かして、ポジションを取った。

静に両手が鍵盤に伸び、そして静かに鍵盤に置いた。

すると、それまで沈黙を守っていたピアノからこぼれるように音が広がっていく。

ワルツだ。

プログラムを見ると、それはショパンの華麗なる円舞曲作品34、3つのワルツの第2番だった。

彼の指先から音がこぼれるように広がっていく、としか形容できない僕のボキャブラリー不足が恨めしい限りだ。

鍵盤を叩くというより、鍵盤を奏でる演奏、それでいてエネルギッシュでもあり、ピアノを弾くというより、ピアノが唄っている、そんな辻井伸行の演奏だ。

演奏は続く。

12のエチュード作品10から連続で10曲、そして20分間の休憩を挟んで4つのバラード4曲。

会場内が辻井伸行の指先から拡がる音に酔いしれる。

純粋、透明感、清潔感、優しさ、繊細さ、そして躍動感、希望、夢…。

優しい音の響きに僕は自然に涙が溢れた。

隣に座っている家内も眼が赤い。

おばさま方もそうだ。

バラード4番の演奏が終わる。

拍手の塊が拡がる。

自然発生的にスタンディングオベーションが。

一旦、ステージの袖に引っ込んだ辻井伸行が再度登場すると、場内はまさに割れんばかりの拍手で迎える。

アンコールだ。

ショパンのピアノソナタが奏でられる。

「素晴らしい!」これ以外にどう表現すればよいか、僕にはわからない。

そして、最後の演奏は彼の作曲した「風の家」だった。

ショパンが一時期滞在したスペインマヨルカ島に辻井伸行が旅したときに、当時ショパンが使っていたピアノを演奏しながら作曲したそうだ。

演奏が終わった。

辻井伸行がピアノの蓋を静かに閉じた。

あ~これで演奏は終わったんだ。

嵐のような拍手が鳴りやまない中で、辻井伸行が僕らに挨拶を述べた。

「今日は僕のリサイタルに来ていただき、ありがとうございます。

僕には皆さんの顔は見えません。でも皆さんの気持ちが伝わって参りました。

皆さんの暖かい拍手にお礼申し上げます。とても楽しく演奏することができました。

ほんとうにありがとうございました。」

彼が正面、右手、左手に深々とお辞儀をする。

彼の言葉が胸に響く。

スタンディングオベーションが始まった。

エスコートにつかまり、辻井伸行がステージを下がる。

拍手は鳴りやまない。

2時間半の演奏が終わった。

外に出ると冬の夜空が拡がっている。

空気が澄み切っているため、星空が美しい。

さぁ、これから2時間半のドライブで我が家へご帰還だ。

きっと明日も我が家のリビングルームに辻井伸行の音が流れることだろう。

 

辻井伸行から優しさと共に、エネルギーをいただいた2016年1月26日が終わろうとしている。