治に居て乱を忘れず、備えあれば患いなし

この度の西日本豪雨での大災害の報道を目にしながら頭に浮かんできた2つの言葉があった。

ひとつは孔子の言葉「治に居て乱を忘れず」である。

平穏無事のときも、万一のときを考えて備えを怠らない、という意味だ。

もうひとつは「備えあれば患いなし」である。

これも中国の「書経」の文中の言葉で、日頃からしっかりと準備を整えておくと、「いざという時」に慌てなくて済む、心配がないという意味だ。

この2つの言葉は日常的に使われているので、極めてポピュラーで知らない人は少ない。

今回の災害において亡くなられた方の半数以上が山崩れによるものだったという。

悲しいことに多くの人が避難しなかったことで亡くなった、と報道で伝えていた。

そして、改めて気づかされたことがあった。

それは、日本の災害救助体系の特徴は、行政機関は警報を通知するだけで、実際に避難するかどうかは住民が自分で判断するということだ。

つまり、多くの住民は警報を知りながら非難しなかったということになる。

これは今回に限らず、東日本大震災でも、それ以前の釧路東方沖地震の際もそうだった。

最新の報道によると西日本豪雨の際、愛媛県では実際に避難した人は1割に満たなかったと伝えていた。

行政による「避難のレベル」は3段階、設けられている。

一番軽めが「避難準備情報」

避難勧告や避難指示を行うことが予想される場合に、それに先立ち発令され、被害が予想される地域の住民、特に高齢者ら避難に時間がかかる人に早めの避難を呼びかけるもの。

次が「避難勧告」

災害による被害が予想され、人的被害が発生する可能性が高まった場合に、発令され、指定された避難所など安全な場所への避難を勧めるためのものだが、避難を強制するものではない。

そして最も重いものが「避難指示」

状況がさらに悪化し、災害によって人的被害が出る危険性が非常に高まった場合や人的被害が発生した場合に発令され、避難指示が出た場合は直ちに避難しなければいけない。但し、避難しなかった人に対する罰則規定などはない。

ちなみに我が国には「避難命令」という言葉はなく、法律にも規定されていない。

いかにも「ぬるい」。

僕にはそうとしか感じられない。

「いざという時」、個々の判断に委ねている限り、このような悲劇は繰り返すと言わざるを得ない。

アメリカの防災体制では「強制退避」が設けられているそうだ。

これは文字通り、強制力を伴うもので、命令に従わないと身柄拘束、逮捕されるというものだ。

日本では私権侵害を伴うことで、仮にも政府が強制退避法案を国会に提出したら、個人の自由侵害、憲法違反、言論弾圧、警察国家云々の大合唱が野党、マスコミが繰り広げることは間違いないだろう。

防災国家を目指すという政府の大号令には賛成するものの、その中身は堤防の積み上げ、防潮堤、といったものが中心だ。

これでは、「いざという時」には役に立たない。

えらそうなことを論ずる訳ではないが、防災国家を築くには3つのことが必要だと僕は思う。

ひとつは、指揮命令系統、強制避難を含む避難体系をきっちりとまとめた法体系の整備だ。

平時を前提とした行政組織では、いざという時に充分な機能を果たすことが難しいことは、東日本大震災で明らかだったので、米国の緊急事態管理庁(FEMA)のような一元化」組織が必要だ。

次に避難体制の構築だ。

これは、災害がある度に学校の体育館に避難住民の姿を見て感じることだが、硬い床にビニールシートを敷いて雑魚寝スタイルで避難していては一晩寝れば高齢者に限らず足腰が痛くなり、安眠などはそれこそ夢物語だ。

まして埃っぽい体育館で床に寝ること自体が非衛生的だ。

これでは、誰しもが避難したくなくなるのも頷ける。

悲しいことに避難所スタイルは、この50年間、何ら改善が見られない。

以前、TVで見たオランダでの水害の避難所の姿が新鮮だったことを覚えている。

グリーンのテント生地の組み立て式2段ベッドに横になったり、おしゃべりしているシーンだった。

避難所の快適さはそれこそ天と地の違いだ。

プライバシーもそこそこ守れ、私物もある程度収納できるのが特徴だった。

それこそ、コストもそうかからないので、行政は着手すべきことだ。

そして3つめが防災訓練の義務化である。

普段、何の訓練も受けていない人ほど、「いざという時」に、自分はどう動いたらよいか、即断できないものだ。

昨年、僕は地元自治会の役員を務めたが、そのとき力を注いだことは地域の防災だった。

防災倉庫の保管している機材の見直しと併せて新たに防災ヘルメット、簡易トイレなどの購入も行ったが、力を入れたのは防災訓練だった。

高齢者の住まいも多いことから、大文字A4サイズ1枚のカラーの防災手引きをつくり、

それぞれの班ごとに責任者が引率して公園に集合し、消防署に依る消火訓練、有刺の奥様方による「防災おにぎり」「防災味噌汁」でのお昼ごはん。

普段、中々顔を合わせる機会が少ない事もあり、訓練を通じてお互いの近況や顔を知る機会となった共に、「いざという時」の行動を体験してくれたことは大きな成果だった。

地域ごと、市町村ごと、あるいは広範囲に国民必参加の防災訓練を行い、「いざという時」に自分はどう動けばよいか、どういう役割を果たせばよいか、を体感させる、する機会を強制的に法律化すべきではないか。

防災は日本国民共通の課題である、という共通認識を国民全体で共有することは大切である。

ここで、「私権の自由」という反対論は勘弁願いたいものである。

今、日本は従来では考えられないような想定外の災害、事件に見舞われている。

阪神淡路大震災、東日本大震災、地下鉄サリン事件…。

首都直下型地震の発生は避けられないという。

防災の「ハード=治山治水・避難所インフラ整備」「ソフト=防災法の整備・日本版FEMAの設立・防災訓練義務化」の両面での整備が望まれる。